大阪ゴルフクラブの始まりは昭和12年。寺田甚吉、高畑誠一をはじめとする6名の有志が中心となって大阪ゴルフ倶楽部を設立、南海鉄道沿線の大阪府泉南郡淡輪深日の海岸・丘陵地帯24万坪(約80万平方メートル)を買収し、全長6,700ヤード、パー72のチャンピオンシップ・コースの建設に着手した。
コースの設計は、当時ヨーロッパから帰国したばかりの上田治氏。ゴルフ場の建設工事は、土質は良好だったものの海岸に接した複雑な地形のため、意外に困難を極めた。しかも、当時は用地が由良要塞に属していたので、測量や開墾、樹木の伐採、写真撮影など全て軍の許可が必要で、海岸沿いには松や灌木がうっそうと生い茂り、コース工事は苦難の連続で、昭和13年7月25日、ようやく完成し、晴れの開場を迎えることができた。完成した『大阪ゴルフ倶楽部深日淡輪コース』」は、関東の川奈富士コースとともに関西唯一のシーサイドコース・チャンピオンシップコースとなり、国内でもっとも難しいコースの一つとして注目を浴びた。
Hole | YDS | Par | Hole | YDS | Par |
---|---|---|---|---|---|
1 | 421 | 4 | 10 | 330 | 4 |
2 | 148 | 3 | 11 | 374 | 4 |
3 | 495 | 5 | 12 | 145 | 3 |
4 | 410 | 4 | 13 | 535 | 5 |
5 | 203 | 3 | 14 | 177 | 3 |
6 | 413 | 4 | 15 | 445 | 4 |
7 | 330 | 4 | 16 | 396 | 4 |
8 | 490 | 5 | 17 | 515 | 5 |
9 | 465 | 4 | 18 | 408 | 4 |
Out | 3,375 | 36 | In | 3,325 | 36 |
Total | 6,700 | 72 |
権威あるコースとして高い評価を受けた大阪ゴルフ倶楽部最初のビッグ競技会として、関西プロ選手権競技が昭和14年9月19日から4日間、盛大に行われた。決勝では戸田藤一郎と宮本留吉の間で優勝が争われ、戸田が大阪ゴルフ倶楽部で行われたビッグゲームのチャンピオン第1号となった。この年の春と秋には東久邇宮・朝香宮両殿下がお越しになるなど、明るいニュースが続いたが、ヨーロッパでは第二次世界大戦が勃発、国内では米の配給制がスタートするなど、暗い動きも次第に活発となっていった。
昭和15年8月、当コースが日本ゴルフ協会からチャンピオンシップ・コースとして認定され、前年に続いて朝香宮殿下をはじめ宮様方がご来場されるなど、倶楽部にとっては嬉しい出来事が続いたが、戦時体制の強化はゴルフ界にも波及し、9月には30歳以下のゴルフが禁止された。翌年の12月、ついに日本海軍機動部隊の真珠湾攻撃によって太平洋戦争の火ぶたが切られた。
3年目を迎えた太平洋戦争は、日米の国力の差が戦況に反映し、米軍を主力とする連合軍の反攻は猛烈を極めた。こうした情勢の中で、昭和19年3月18日、当ゴルフ場に対しても「4月1日以降、軍事上の必要期間、土地建物を借上利用する」との要請がもたらされ、ゴルフ場を閉鎖して、軍に明け渡すことにした。
開場から閉鎖までの営業日数は2,052日で、この間の来場人員は会員3万5,622名、ビジター6,356名にのぼり、1日平均20名であった。
昭和20年8月15日、日本のポツダム宣言受諾によって大きい犠牲を払わされた戦争が終わり、同月28日には接収解除の通達があった。しかし、返還されたゴルフ場の土地建物は大阪府に移管されることとなる。翌年10月には、自作農特別措置法が公布され、未墾地買収規定が当ゴルフ場にも適用となり、約13万坪が国に買収されて一般耕作者に解放されることになった。
会員や地元関係者の間から「ゴルフ場の早期復活」の要望が高まってきたため、会社首脳部や寺田甚吉理事長ら関係者が協議して、昭和26年5月、ゴルフ場の復活を決意し、解放農地の耕作者に離農交渉を続けるとともに、用地の確保・復旧工事に着手した。 同年11月に、社名を『株式会社大阪ゴルフクラブ』に改称し、再開の期待を込めた杭打ち作業が昭和27年2月から始まり、開拓農地以外の整備を終えた10月に9ホールズのオープンを迎えた。しかし、昭和28年6月、農林省から「農地のゴルフ場転用は農地法違反になる。ただちにプレーを中止し、ゴルフ場を閉鎖せよ」との勧告がなされた。ゴルフ場側から大阪府に陳情を繰り返したが交渉は難航し、そこで地元や南海電鉄とも協議・研究の結果、ゴルフ場のある南淡輪地区に府民のレクリェーション施設として都市計画公園を建設、ゴルフ場はその緑地帯として認可を受け、国有農地の払い下げと開拓農地の転用許可を得る以外に方法がない、との結論に達した。 そして昭和28年7月、ゴルフ場全域の18ホールズが完成し、同月19日、全面オープンを記念して開場記念競技会を開催した。
昭和30年4月、4ヶ町村が合併して岬町が誕生した。同年10月に農林大臣から公園指定区域(ゴルフ場を含む)内の開拓農地について貸し付けるかたちでの認可がおりた。このため、同年12月、泉岬公園(のち、みさき公園)の起工式が行われた。
昭和31年、泉岬公園の工事は順調に進められ、公園指定区域に入っているゴルフ場敷地のNo.1、No.16、No.17、No.18各ホール
を公園施設用地に提供して閉鎖し、その代替地として新しくNo.10、No.16、No.18の3ホールを新設した。このホールはその後、No.1、
No.2ホールとして使用されることになった。
昭和32年の都市公園法の施工によって、難航していた開拓農地の転用問題は大きく前進し、35年10月17日、国有開拓農地11万坪が農林省から正式に払い下げられることが決まった。これによってゴルフ場再開の大きなネックになっていた開拓農地問題は、昭和19年の陸軍によるゴルフ場接収以来、16年ぶりに解決し、晴れて地域の手に戻ってきたわけである。